Sae Lee ~From Paris~

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スロヴェニア2日目は、イタリアでの観光や移動でのだいぶと疲れがたまっていたので両親にはホテルでゆっくり過ごしてもらい、私はイタリアでの最後のコンサート以来、練習することもできなかったので翌日のコンサートの為にコンサートが行われる修道院で練習させてもらいました。

vinska_klet_sodi_NEW.jpgスロヴェニア3日目は、まず午前中にPtujのワインセラーを訪れました。ワインと聞くとフランスとイメージする方が多いと思いますが、スロヴェニアでは個人でぶどう畑を持ち、家族や友人でぶどう摘みからワイン造りまで行うことが一種のステータスとなってるように、人々の生活とワインがとても密着している様に思います。そうして造ったワインを家族や友人たちで楽しむそうです。

Ptujは、スロヴェニアの中でも最古の都市の一つでとても古い歴史を持っています。Ptujの歴史に初めてワインが登場したのは、コンサートの行われる修道院が1239年に建てられた時だそうです。教会や貴族たちはPtuj周辺のぶどう畑に適したHalozeという所の広大な土地を取得し、修道院の地下に大きなワインセラーを建てたそうです。

今回見学したのは、修道院から歩いて5分ほどのところにあるワインセラーで、現在も販売するためのワインを造っており最大の樽には2万2千リットルのワインを貯蔵することができるそうです。1898年に、ヨゼフ・オルニックという当時の市長がPtujワインセラーの所有権を取得しました。当時はまだオーストリアハンガリー帝国の支配下にあり、当時はドイツ語を公用語として使用し、オルニック氏はスロヴェニア人でありながらも自分はスロヴェニア人ではなく、ドイツ人だと主張していたそうです。

オーストリアハンガリー帝国からも多大なサポートを受けながら、安定した政治を行っていたそうですが、1918年に第一次世界大戦でオーストリアハンガリー帝国が敗戦により解体したことでPtujはオーストリアハンガリー帝国からセルブ・クロアート・スロヴェーン国(のちのユーゴスラビア王国)の一部となり、彼の目指していた政治体制とと新政府の体制は全く違うものとなり、そうした流れで彼は持っていた会社や、農場など全てを息子に託し自分はグラーツへと隠居したそうです。

ptujska_klet_1_NEW.jpgそんな中ワインセラーを受け継いだ息子のパヴェル・オルニック氏は、自分の妻と2人の娘の為に大きなワイン樽にそれぞれの名前を彫りプレゼントしました。その後、Ptujは1941年4月のユーゴスラビア侵攻後、ナチス・ドイツに占領されたのですが、ワインセラーでパヴェル・オルニック氏の下でワインを管理するために働いていたロブニック氏は占領されることを予感していたのか、ワインセラーにあった、たくさんのワインコレクションを分厚いコンクリートの壁で隠したそうです。

その後、パルチザン(ドイツ、イタリア等枢軸国に対する抵抗運動、またその組織およびその参加者)によりスロベニアを含むユーゴスラビア全土が武力でドイツ軍から解放され、1945年に社会主義体制ユーゴスラビアとなるのですが、パルチザン達はドイツ人が残して行った建造物等はことごとく破壊したそうで、残念ながらパヴェル・オルニック氏が自分の妻と2人の娘の為にプレゼントした大きなワイン樽も、名前がドイツ系であったと理由から、名前の部分が削り取られてしまっています。しかし、3つのうち1つの樽だけ、名前の部分が壁側に向けられていたため奇跡的に難を逃れたようです。

こうしてドイツ軍、そしてパルチザンからもコンクリートで隠されたワインコレクションは発見されず、無事に壁が取り除かれ、スロヴェニアでもっとも古い1917年のワインも保管されています。日本人がこのワインセラーを訪れたのは初めてだそうです。セラーを見学した後は、ワインのテイスティングを行いました。3本の白ワインと、ロゼをテイスティングしたのですが、両親も日本に送れないのかなと言うくらいすっかりスロヴェニアのワインが気に入ったようで、4本のワインそれぞれとても美味しかったです。

こうした話を色々聞いていく中でバルカンの歴史文献等も色々と読み、社会主義体制だった時の話を聞いたりすると、歴史って本当に色んな偶然が重なり合ってできていくのだなと思いました。例えば、第一次大戦の引き金となったサラエヴォ事件。学校の歴史の授業では、1914年6月28日にオーストリアハンガリー帝国の皇帝=国王の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領であったサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年プリンツィプによって暗殺された事件としか習いませんでしたが、色々な文献を読みびっくりしました。少しづつ書いてあることが違ったりもしますが大まかな流れは大体同じで、この方のページはとても整理されていて、読み応えがあります。あえて何に驚いたのかは書きませんが興味のある方は良ければ読んでみてください。
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首都に到着した後は、まずはハンドメイドのレース屋さんへ。スロヴェニアにはイドリアレースと言われる有名なレースがあります。イドリアは、山に囲まれた小さな町で、過去数百年にわたり、水銀鉱業のトップにあった町です。イドリアでは、16世紀に水銀の採掘が始まり、その採掘量は世界第2位だったそうで、採掘現場で男性たちが働く間、女性たちはレース編み(ボビンレース)をしながら帰りを待っていたそうで、その結果独自の技法やデザインがたくさん生まれ、イドリアのレースはスロヴェニアで最も有名なレースとなったそうです。

2008_0709_131010.jpgその後、コーペルでの昼食が相当なボリュームだったのであまりお腹は空いていませんでしたが、折角リュブリャナに来たので、私お勧めのSokolというレストランに行きました。ここの、パンの器に入っているマッシュルームスープは、友人などを連れていく時にはいつも勧めています。日本で言う、ポルチーニ茸がふんだんに使われておりとっても美味しく、中のパンをスプーンで削り取りながらスープと一緒に食べるのが最高です。

その後、首都からコンサートの行われるPtujというスロヴェニアで一番古い街に移動しました。駐車場に停めてあったレンタカーの助手席に私が乗ったのですが、運転していたRogina氏が料金の精算に行っている間に、鍵を渡されていたので日本で両親が乗っているオートマチック車の要領で鍵を差し込み回すとゆっくり車が動き出し、本当に大慌てしました。後部座席に乗っていた両親もどうすることもできず、あー!!と車はゆっくりと前に駐車していた車にどんどん近付いていきます。とっさに、鍵を抜くと、ゆっくり車が止まりました。前に車や人が通らなかったのが救いで、本当に短い間の出来事でしたが、レンタカーなのにぶつかったらどうしよう!とか、色々なことが頭によぎりました。今でこそ笑い話ですが、あんなに焦ったのは久しぶりでした。

その後、約1時間半かけてPtujへ。Ptujには温泉がわいているのですが、2~3年前にスパやエステを完備したホテルが新しくでき、部屋のお風呂に温泉用蛇口というのがあり、部屋で温泉を楽しめることができます。蛇口をひねると黄色く濁った温泉が流れてき、久しぶりの温泉を楽しみました。
だんだん記憶も薄れてきましたが(苦笑)、イタリア滞在8日目はトリエステからスロヴェニアのコーペルにバスで移動しました。トリエステの駅前からバスが出発すると聞いており、トリエステ駅の横にあるバスターミナルでチケットを買ったまでは良かったのですが、どこからバスが出発するのかが分からず、チケットカウンターでバス乗り場はどこですが?と聞いてもあっち!としか言ってくれないのでかなりうろうろしてしまいました。駅前にあるバス乗り場は普通のトリエステローカル線のバス乗り場で、バスターミナルにはたくさんのバスが止まっていますが、運転手もおらず駐車場の様な感じです。結局、バスチケットカウンターの並びにあるカウンター裏につながっている怪しげなドアを開けると、すぐにバス乗り場1番、2番があり出発時間ぎりぎりでしたが、バスに乗ることができました。

大型の観光バスに、私たちを含めて7人しか乗っていませんでしたが、トリエステを出発しコーペルへ。40分の予定でしたが、30分ほどでイタリアとスロヴェニアの国境を越え、コーペルに到着しました。バスターミナルから、レンタカー会社までタクシーで移動しレンタカーを借り、ちょうどお昼時だったので、レンタカー会社の人にこのあたりで美味しいレストランがないかと聞き、この近くに"マンタ"という仕入れた新鮮な魚介類がなくなるとお店を閉めるレストランがあると教えてもらいました。あまり期待せず行ってみると、一品一品のボリュームもあり、とっても新鮮で美味しかったです。

IMG_0042.jpgその後コーペルを出発し、ポストイナ鍾乳洞へ行きました。夏期には毎1時間ことに行われるツアーも冬期は一日3回しか行われておらず、15時のツアーにぎりぎり間に合いました。昨年の夏に、友人のコンクールの伴奏を頼まれた時に、一度ポストイナ鍾乳洞を訪れており今回で2度目でしたが、夏には約100人程いた英語でのツアー客が、今回は20~30人しかおらず、ガイドの説明をゆっくり聞きながら前回よりも細かいところまで見ることができました。左の写真は、ポストイナ鍾乳洞のシンボルになっている鍾乳石でパンフレット等にも用いられています。以前にも書きましたが、簡単な鍾乳洞の説明です。スロヴァニアには約6000もの鍾乳洞があるといわれており、その中でもポストイナ鍾乳洞の洞内の延長は約20kmもあり世界第3位、ヨーロッパ1位の規模だそうです。 以前訪問したシュコツィアン鍾乳洞とはまた違った趣向でまず、2Kmほどトロッコに乗り鍾乳洞内へと進んでいきます。このトロッコが、壁や天井すれすれを通ったり、かなりのスピードで走るのでなんだか、USJのアトラクションを楽しんでいるような気分に。そして、その後約1キロメートルを徒歩で見学し、またトロッコに乗って入口へと戻ってます。

鍾乳洞の見学後は、首都リュブリャナへ移動しました。
今日は旅行記はお休みして、昨日あった出来事を。昨日、スパーマーケットの帰り歩いていると、歩道の脇にある花壇のようなところから、ピヨピヨと聞こえてきたのであれっ?と思い見てみると、まだ生まれて2週間くらいになる鳩のヒナが2匹寄り添っていました。

実は、鳥のヒナを見つけたのはこれで3度目。1度目は家から出ると、ものすごい蟻の大群の中にヒナが・・・。蟻の中から救い出し、きれいに蟻をピンセットで取りましたが、あまりに小さすぎ、しかもかなり傷が深かったのでなす術がありませんでした。2度目は、夜遅く家のドアの前から、ギャ、ギャっと音がするので見てみると、雨の中ドアの前にカササギのヒナが。びっくりして見ていると、家の中に入ってきました。かなり寒かったので、段ボールの中にタオルを敷き、ペットボトルに熱いお湯を入れて湯たんぽの様にしましたが、翌日の朝起きてみると既に息を引き取っていました。

その2つの経験から、家の最寄りの駅にある獣医大学の中に、野鳥のヒナを保護してくれるところがあるということを調べて知っていたので、すぐに家に帰り箱を取ってヒナのいた場所へ戻りました。ヒナのいる場所の周りには、遠巻きに見ることくらいしかできない様子で心配そうに見守る鳩たちの姿がありました。タオルを敷いた箱の中にヒナを入れて、歩いて10分ほどで獣医大学に。緊急と書かれた標示を辿って行くと受付があり、そこで事情を説明し雛たちを引き渡しました。連絡先や見つけた場所を用紙に記入するよう言われ、いずれにしよその後どうなったのかを連絡してくれるとのこと。

動物病院も兼ねているようで、外では馬の治療などもやっているようでした。ここに運ばれる、動物のうち約9割が野鳥のヒナだそうで、すぐに治療に当たるので心配ないですよとホッと一安心。鳩は一度に2つの卵を産むそうで、2匹一緒にいたということは誰か心もとない人が、ヒナを巣からその場所に放置したのではないかと思います。

今のところまだ連絡がないので、元気に過ごしているのではないかなと思います。今、フランスは復活祭の休暇中なので保護してくれる所も休みじゃないかと心配しましたが、聞くと休みなしで、夜中でも誰かしら対応してくれる人がいるそうなので、これからもし保護することがあっても安心です。
イタリア7日目。まず午前中はせっかくのVeniceということで、ヴェネツィアングラスで有名なムラーノ島へ水上乗合バスに乗って行きました。船の中でガイドブックを読んでいると、後ろの座席から日本人の方ですか?と、イタリア人の年配の男性に声をかけられました。色々とお話をすると、上智大学を卒業後、日本にあるイタリア観光局で働いていらしたそうで、定年退職されてからも毎年日本に行くほど日本通の方でした。今からムラーノ島に行きヴェネツィアングラスを見に行くと話すと、ムラーノ島で売られているヴェネツィアングラスの80パーセントは中国製品だから気をつけてくださいと忠告を受けました。

IMG_0243.jpgムラーノ島に到着し、ガイドブックに掲載されているガラス工場に行ってみると、ちょうどお昼休憩中で制作しているところは見ることができませんでしたが製作工場を見せていただき、その後コレクションを見せてもらいましたが、すべてそこの工場で作られたと言うだけあって素晴らしいヴェネツィアングラスの数々でした。その後、昼食を食べ色々とお店を見て回りましたが、実際どれが中国製でどれが本物のヴェネツィアングラスかは見ただけでは違いははっきりとはわかりませんでしたが、ガラス工場で売られていたものと良く似ているものが、ガラス工場で売られていた価格の半値以下や、ひどいものだと10分の1で売られていたりしており、こんなに安いのはやっぱり中国製だからなのか、それとも訪れた工場が高値をつけすぎているのかと、疑心暗鬼に陥ってしまいまい、結局何も購入せずにムラーノ島をあとにしました。

その後、サンタルチア駅までウィンドーショッピングをしながらブラブラと歩き、ホテルに預けておいた荷物を取りに行き、サンタルチア駅から約3時間弱かけてスロヴェニアとイタリアの国境付近にある港町のトリエステへ移動しました。翌日の朝に、トリエステ駅前からバスで国境を超え、30分ほどかけてスロベニアのコーペルという街へ移動し、コーペルではレンタカーを借りてスロヴェニア内を移動するというスケジュールです。4月から秋までヴェニスからコーペルにフェリーが出ているのですが、3月だったので、電車とバスを乗り継いで移動することにしました。
IMG_0141.jpg午前中に、ヴェローナからヴェニスへ電車で移動。ヴェニスでは、荷物を持っての移動を考慮して、サンタルチア駅から歩いてすぐのホテルを予約しました。古い修道院の跡を改装したホテルで、壁に残るオリジナル装飾や石張りの床の美しい模様は一見の価値があります。ホテルにチェックインし荷物を置き、ヴァポレットと呼ばれる水上乗合バスでサンマルコ広場に行きました。船の最後尾から見える、景色は今まで訪れたどの街にもなかった本当にユニークなもので、すっかりお気に入りの街になりました。

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サンマルコ広場では、サンマルコ寺院を訪れ、本当に良い天気で青空が広がりとても気持ちのいい日だったので、その後、街を一望できる高さ96.8メートルの鐘楼にエレベーターで昇りました。ヴェニスの街は自動車が通れないので、移動手段は船か徒歩。人が一人通れるほどの細い道や、運河が複雑に入り組んでいますが、路地の角々に名所の表示がされているので地図を片手にと言うよりは、その標識に従っていけば、ほぼ迷うことはないようになってます。とはいっても、初日は標識が出ているのを知らずに、大回りして歩き回りましたが・・・。あと、自転車も一台も走っておらず、不思議に思い調べてみると、やはり自転車の使用も禁止だそうです。

IMG_0213.jpg水上バスで移動中に、警察や救急の車ではなく船、そしてお葬式をやっているところにも偶然通りかかったのですが、霊柩車ならぬ、霊柩船を見かけ、人々の生活に船がこんなに密着しているんだなと、まあ車も自転車もないところですから、当たり前と言ってしまえば当たり前ですが、変に感心してしまいました。

色々と歩き回り疲れたので、ゴンドラに乗る事にしました。サンマルコ広場から乗り、40分ほどかけて戻ってくるというコースです。こんなに細いところまで入っていけるの?というような細い運河もなんのその。巧みにオールを動かして、どこにもぶつかることなく、すいすいと進んでいきます。話を聞くと、お父さんもゴンドラ漕ぎだったそうで、小さい頃からゴンドラに乗り、お父さんから漕ぎ方を習っていたそうです。

その後地球の歩き方にも載っている、Trattoria alla Madonnaで夕食を食べることに。さすが、日本語のメニューもあるだけあって、たくさんの日本人観光客がいる様子でした。ここは、出てくるのがとにかく早かったです。サービスもとても良く、二品ほど頼んでいないのにサービスだよと持ってきてくれました。パスタ系はいまいちでしたが、魚介類は新鮮でとても美味しかったです。

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